2025年03月31日(月) 「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げ ましょう」マタイ4:9
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げ ましょう」マタイ4:9
主を信じる人々がクリスチャンであり、聖書を読み、祈り、日曜に 教会に行く。だが、自分は「何のために」信仰しているのだろう。 少し立ち止まって考えてみる事は有益だ。信仰は、自分の願う何か を得るための手段だろうか。この世の宗教は、そのようだろうか。 神社では、さい銭を投げ入れ、ジャラ〃と大鈴を鳴らし、パンパン と柏手を打ち、あれやこれや願い事を告げる。 信仰が、もし何かを得るための手段なら、その欲しいものさえ手に 入るなら、他の手段でもよい事になる。この世では、一つの宗教で は、望みが叶わないなら、他の宗教へと次々渡り歩く姿を目にする。 悪魔は「私を拝むなら、この世の国々とその栄華を、全部上げるよ」 と巧妙な誘惑をしかけた。「あなたのその欲しいものを上げる、私 を拝めば」と。 喉から手が出るほど欲しい物があれば、大きな誘惑となる。欲しい ものが得られるなら、誰がくれようと構わないと思ってしまう。し かし主には、御父を礼拝する事は手段でなく「目的」であった。時 に、問題解決のための信仰だったりする。次々と襲い来る悩みや困 難の解決が欲しい。又、より良い人生や人格者になる事、心の満足 や自己実現の手段とするなら、神が自分の思い通り、期待通りに動 いてくれないなら、遅かれ早かれ失望する。 やがて神の愛を疑い、神から離れる事になる。神は、御心ならそれ らのものを与えて下さる。しかし与えられようと、そうでなかろう と、どんな中でも、神を神として信じ、神を崇め、神を礼拝し、神 との交わりを目的として生きるなら、主からの平安と喜びを失う事 は決してない。 ------------ 自分の思い通りが叶わない事も感謝だ。主は最善の事しかされない と知っているからだ。自分の欲しいものに曳かれて何処までもさ迷 う事から守られる。与え主の神を神として堅く立っていよう。