2025年04月30日(水) 「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」 詩篇23:2
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」 詩篇23:2
前節に「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」とある。別訳で、 「わたしには何も欠けることがない」「必要なものはみな与えて さる」と。そして、主は、誰かの羊飼いでなく、「私の」羊飼いと。 人生で、欠けること自体は、幾らでも経験して行く。様々、欠けて 行く。年齢と共に確実に体力は欠けて行く。経済的困難でお金に欠 ける。親を見送る。リストラや倒産で職に欠ける。 欠けるものに目を留めていると、あれこれと欠ける。しかしダビデ は現状でなく、主に目を上げた。羊飼いである主、羊である自分。 羊飼いが自分と常に共におられる。小さな子どもは、いかに厳しい 環境の中も、親がいれば十分だ。そこは平安で幸せの場所だ。私た ちもどんな時にも、羊飼いである主が共におられる。 その主が、私たちを平安に休息できる場所に、渇きが潤され心満た される所へと導いて下さる。そんな羊飼いが飛んで、現状を見、飲 み込まれて、あたふたしているだろうか。ダビデは無いものを数え たのでなく、今、与えられているものに感謝した。今、現在すべて の必要は与えられている。明日の心配は無用で、明日は、明日の必 要を与えて下さる。 羊は近視眼ですぐ迷子になる。しかし羊飼いが進路を導き、軌道修 正し、正しい道へと導く。羊飼いがいる限り、私たちは決して道に 迷うことはない。ところが、私たち自身が羊飼いになってしまう。 すべての重荷が自分の肩にかかり、不安、思い煩いで身動き取れな い。絶えず羊飼いに目を向けよう。何と安心なことだろう。 -------------- 欠けていくものは目につき、備えられてる恵みは見えにくい。何を 見ているだろう。主なる羊飼いに守られていて、何処へ行っても恵 みは追ってくる。主を仰いでいこう。