2025年08月31日(日)

「あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に 道を、荒地に川を設ける」イザヤ43:19



イスラエルに、大きな厳しい試練が臨んだ。バビロン捕囚だ。国
が滅び、神殿は破壊され、国土は廃墟となった。その中、敵国バ
ビロンに、民は捕虜となり連行された。悲惨で、屈辱的な、絶望
的な出来事だった。異国での長期の捕囚生活、目の前の広大な
荒野、もう先の事など考えられなかったろう。そこに主は、「わたし
は新しい事をする」と。この捕囚から解放し、エルサレムに帰還
させると。

何という慰め、希望だろう。「バビロンに使いを送り、彼らの横木
をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落と
す」、バビロンを打ち負かすと。「昔の事を考えるな」とは、出エジ
プトの紅海横断のことだ。民には後にも先にも無い、非常に偉
大な奇跡であり、彼らの原点だ。

それが、今は、バビロン捕囚という極めて苦しい状況だ。「わたし
は荒野に道を、荒地に川を設ける」「荒野に水をわき出させ、荒
地に川を流し」。道が無い所が荒野で、耕されていない地だ。そ
こに道を造ること、叉、水の無い荒れ地に川を流すこと、これは
紅海が分かれるよりも、更に困難だ。

つまり、「新しい事」とは、いっさい人の手によらない、人には出
来ない、神にしか出来ない事だ。ペルシャ王クロスによって民
は解放された。神に不可能は一つも無く、しようとすることを必
ずされる。私たちにも、荒れ果てた、絶望的な状況の中で、神
にしか出来ない「新しい事」をして下さる。

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いっさい人の手によらない、神わざである、「新しい事」は、人
の手が尽きた時にこそ、大きな期待と待ち望みとされる。人の
手で、どうにも出来ないからこそ、主への信仰となり、期待と
なる。そして主の栄光が現わされる。