2025年10月31日(金) 「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ・・が伏せっていた。そこ に、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」ヨハネ5:3
「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ・・が伏せっていた。そこ に、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」ヨハネ5:3
ベテスダの池には、いやしを求めて、多くの人々がいた。その中に 38年病にある男性がいた。38年は、気の遠くなるような歳月だ。医 者を訪ね回り、すべての方法を試した事だろう。どうしても治りた い。しかし、何もどうにもならない、現実にぶち当たる。次こそは と期待しては裏切られ、又、望みを置いては、落胆しの繰り返しだ。 次第に心が折れて来る。その中、たどり着いたのが、ベテスダの池 だった。水が動いた時に、最初に入った者は、どんな病でもいやさ れる。じっと動く時を待ち、次こそ、次こそはと思うが、しかし付 き添いのいる人に、先を越される。ここも同じだった。期待しては 打ち砕かれ、挫折の繰り返しだ。心が疲へいし、期待すると傷つく ので、期待する事を止めてしまう。 これ以上、、もう傷つきたくない。多くの人々がいる中で、主は、 この男性に近づかれた。38年の長い苦しみ、悲しみ、嘆き、期待と 失望を何もかもご存じで、問われた。「よくなりたいか」と。答え は「イエス」か「ノー」だが、彼は介助者がいないからダメだ、介 助者のいる人が先に行くと答えた。私たちもどうだろう。あれが無 いこれが無い、だからだめ。 又、自分がこうなのは、生い立ちのせい、環境、社会、親のせいだ と。 自己憐憫、自己正当化の中にいる限り、全く何も変わらない。そこに は喜びも、平安も無い。それらは関係無く、「あなたは」よくなりた いのか、と主は問われている。自らの心はどうだろう。主に信仰を向 け、「はい、よくなりたいです」と答えよう。主はその信仰を受け取 り、みわざをして下さる。 ----------- 試練や悲しみを抱えてじっと身を横たえているのは辛い事だ。主によ くなりたいと応答してみよう。主は常に全てを知っていてくださる。 問題を抱えたままで主により頼み、床を取り上げて歩みたい。