2004年06月30日(水)

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい・・互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)

ある人が心を深く傷つけられた相手を赦しているつもりだった。しかし、その傷を話していた時、感情が押さえ切れず涙がこみ上げ、大きく動揺した。「まだ赦してないんだね」と言われ「私は悪くなど思っていない」と答えた。自分はクリスチャンなのだからと思った。しかし、彼女の顔はひどく歪んでいた。心から赦していたら、そんなに感情的になるはずがない。自分に向き合った時、傷を思い返しては、反すうし、自分を傷つけ苦しんでいる事に気づいた。決して赦していないし、忘れてなどいない。そう思い込もうとしていただけだと。現実にしっかり向き合い、現実の自分を認め、神に助けを求めた。その後、彼女は全く癒され、笑いながらその事を話せる自分に気づき驚いた。
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自分はクリスチャンだから、赦しているつもりである場合が多い。あくまでも「つもり」であって、実際は異なるのだ。赦す事のできない、赦したくない自分を認め、正直に神の御前に出る時、神は癒して下さる。しかし、必ず真の自分の姿を認めることを求められる。