2006年02月28日(火)

「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合のよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ・・」Uテモテ3:3


聞きたくない御言葉、素直に聞け
ない心に引っかかる御言葉は「な
ぜなのか?」を探る必要がある。
その中にあなたが気づいていない、
問題があるからだ。本当は薄々分
かっているから聞きたくない。
問題を見たくないので、あいまい
にし、見ない振りをする。自我に
とっては嫌で、痛い。その問題が
明らかになった時、神に従うのか、
自我に従うのかで、実を結ぶかど
うかが決まる。薄い岩地に芽が出
たが、日が上ると枯れてしまった。
罪を犯した時、世間体と体面のゆ
えに知られるのを恐れて、自分の
内にあるその原因、根源を突き詰
めず、表面だけを取り繕う。
こうすると、同じ罪を再び犯す。
根にそのままあるからだ。そいう
いう問題を起こす弱さが内にある
わけで、それを自分できちんと知
り、認め、主に対処して頂く必要
がある。光により、真実があらわ
にされ、不純物が除かれ聖められ
る。それは自分では出来ない。
見たくないゆえ、わざわざ蓋をす
るのだから。
---------------------
なぜ耳が痛いのかよく自問して行
くとそこに捨てなければならない
自我があることがわかる。自我を
砕いていただくべく、主に差し出
すか、闇に押し込め先送りにする
のか・・よく考えるべきだ。