2007年09月30日(日) 「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」詩篇51:2
「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」詩篇51:2
ある人々は、罪を犯して落ち込んで主 を離れてしまう。それは自分できれい になって、御前に出ようとするからだ。 自分で何とかしようとする。病気の人が、 こんな見苦しい病気では病院へ行けない から、治ってから行こうとすることだ。同じ 事をしていないか。自分で正しい行いを して御前に出ようとする事は、主の十字 架は必要無いと言っている事になる。そ れなら、主は無意味に死なれた事になっ てしまう。どんな時も主の血潮に拠り頼 むことだ。御子イエス血はすべての罪から 私たちをきよめて下さる。自分の行ない に頼らず、主の血潮に頼み続けよう。律 法を行なう事によってでなく、罪を赦され 続けて、生涯歩む恵みの中にいるのだ から。又、罪は完全に赦されるが、だから と言って罪を犯してよいのではない。常に 罪から守られるよう、主に拠り頼む必要 がある。模範であったダビデも失敗した。 部下が命がけで戦地にいる時に、怠惰 な生活をしていた。心に油断があり、サタ ンにつけ込まれた。誘惑に乗ってしまい、 姦淫と殺人の二重の罪を犯した。罪は 赦された。しかし、罪の結果は悲惨だ。 罪を甘く見てはいけない。罪は赦される が、結果は残る。バテシバの産んだ子供 は死に、又、別の子供は謀反を起こした。 赦されるのだからと、安易に罪を犯しては ならない。 ・・・・・・・・・ 主のあの十字架での凄惨な苦しみを見 て、罪の意味を知る。そして、その罪が 赦されるとは、何という恵みだろう。突き 詰めると、私たちの心の奥底の一番の 願いは罪の赦しではないだろうか