2025年05月08日(木)

「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう 年寄りですし、妻も年をとっております」ルカ1:18



夫のザカリヤは祭司であり、妻エリサベツもアロンの家系で、共に
主に従う人であった。だが、大きな悩みがあり、エリサベツは不妊
で、夫婦共に老齢であった。長い間、夫婦で切に祈って来たことだ
ろう。突然、主の使いが現われ「あなたの願いが聞かれた」と告げ
る。妻に、男の子が与えられると。そして、その子はイスラエルの
人々を神に立ち返らせ、メシヤのために道を備えると。

突如の驚くべき事で、大きな喜びだ。子どもが与えられ、更に、長
く待ち望んだメシヤがもうすぐ来られるとは。しかし、ザカリヤは、
信じる事ができない。状況的に、常識的には考えられない、不可能
な事であり、何によって信じれるのかと、証拠を求めた。すると彼
は、不信仰のため口がきけなくなった。私たちも主の言葉と状況が
相反する時に、信じられないだろうか。

だが、「不可能」の土壌だからこそ、奇跡が起きる。奇跡のために
は、「不可能」でなくてはならない。主はザカリヤをおしにされた。
彼はその期間、主を仰ぎ、主の言葉を思い、握りしめ、反すうした
事だろう。不信仰が信仰へと導かれ、子どもが生まれた時には、主
の命令通り「ヨハネ」と名付けるように伝えた。

その途端に「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるように」なっ
た。主に従ったからであった。彼は「神をほめたたえた」。目に見
える所と御言葉が相反する時には、主の言葉に立とう。難しければ、
そうできるよう祈ろう。御霊は助けて下さる。「主によって語られ
たことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」

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不可能が、奇跡のための土壌とは何と感謝なことだろう。必ず祝福
に代えられる。目の前のことは強い影響があるが、主の御約束を握
り、必ず主のご栄光を拝することを信じ待ち望みたい。