2024年12月21日(土)

「私の時は、御手の中にあります。」詩篇 31:15



ダビデもそうだが、ヨセフを通しても、様々な「時」について教
えられる。ヨセフは、父親から特別にひいきされ可愛がられ、
その事で兄たちから、ひどく妬まれていた。そのため、エジ
プトに奴隷として、売られる事になった。だが、そこで、大変
良い主人のもとに導かれた。

、ヨセフも忠実に懸命に働き、主人から全信頼を受け、その
家の何もかもを、任せられるまでになった。奴隷の身ながら、
素晴らしい祝福に、ヨセフは、さあ「神の時」だと思ったかも
知れない。しかし主人の妻の誘惑に会い、その事で無実の
罪で投獄された。奴隷より更に悪い囚人となってしまう。

それもヨセフに何の非も無いのに。しかし牢で、主を見上げ、
腐らず、失望せず、自分に出来る事を忠実に行なった。そこ
でずっと「忍耐の時」を過ごす。最終的には牢から出され、
総理大臣に任命され、王より全権を任される事になる。長い
忍耐の末に、とうとうヨセフの「時」到来だ。

あなたは今、苦しみや悲しみの「時」だろうか。まさに目の前
が真っ暗で、何の希望も持てない「時」だろうか。しかしヨセフ
のように、主のスケジュールがあり、「主の時」がある。主を
信頼して、主を待ち望もう。私たちの信仰が、練り鍛えられる
時であり、強めて行って下さる。あなたへの「時」がある。

今は、先が全く見えないかもしれないが、必ず時満ちて、主が
あなたを引き上げられる。主の「時」は完璧だ。間違いが無い。素
晴らしいみわざを見る。最悪の状況の中で、自らの力が尽きるとこ
ろにこそ、弱さの中に、主の力が現われる。どの「時」でも、ある
がままの思いを、気持ちを主に告げて、受け止めて頂こう。

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信仰人生で、何事にも、主の「定められた時」がある事を、経験
をもって知る。主の時でなければ、物事は微動だにしない。そし
て主の時が来ると、事態が動き、するすると、目の前で開いて
ゆく。すべての状況に主を認め、時を待とう。