2026年08月12日(水)

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。 御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成され るというのですか」ガラテヤ3:3


主を信じた時は、一方的な恵みによる事だった。何の行
ないも無かった。ただ、主の十字架の身代わりの死を信
じ、救われた。その恵みは、よく理解できるのだが、救
われた後は、行ないで生きてしまう。今までの古い価値
観が根深く培われているためだ。

この世の価値観は、自分の力がすべてであり、自分の努
力、頑張りで勝ち取るものだ。自分を信じて、自分の力
で生きて行く。自力で頑張れ、頑張れと、頑張りが善で、
美徳なのがこの世の教育だ。そのため恵みで救われたが、
その後は自分の力で善行を頑張ってしまう。

祈りも行ないになってしまい、熱心な祈りの行ないや、
犠牲的な献げ物によって、主は愛して下さると思ってし
まう。自分の願いが叶えられるために、もっと頑張って
時間と労力をかけて、祈りを積み上げ、もっと信じなけ
ればと、信じる事にも自分の頑張りが出て、段々苦しく
なる。

信仰生活が辛くなっていたら要注意だ。救いは無代価だ
が、その後は、行ないによっていないだろうか。しばし
ば陥ってしまう。主の愛顧を得るために、受け入れて貰
うために、何かをするなら、それは律法であり、恵みか
ら落ちている。

主に完全に愛され、完全に受け入れられているから、感
謝が溢れて、自発的自由意志で、献げたいと思うのが福
音だ。そして自力でなく、全面的に主に拠り頼む歩みだ。
そこにあるのは苦しく辛い頑張りでなく、そこから救わ
れた平安と喜びだ。
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主の大きな犠牲によって救い出されたのに、すぐに自分
を縛る律法に迷い込む。主の恵みに感謝し、自力に頼ろ
うとする時、気づきたい。主に頼って歩みたい。