2009年05月30日(土)

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」Tペテロ3:15




信仰と宗教心は違う。良い事があるよう、災いが無いよう、神に、家内安全、無
病息災、商売繁盛を願うのは、信仰ではなく単なる宗教心だ。

信仰を持っていなくても、誰でも願う。信仰とは、神が与えて下さった約束を信
じる事だ。アブラハムが、何も見えない中、神が子孫を与えるとの約束を信じた
ように。

神の約束を、どんな中でも、何一つ見えない中でも、信じて行く事が信仰だ。現
状がどんなに悲惨で、厳しくても、それにも関わらず、神が語って下さった御言
葉を信じて行く事だ。

それゆえ私達はどんな状況の中でも、状況でなく、信仰によって歩んでいるので、
何があっても「大丈夫だ」と言える。絶望は無い。どんな時にも希望がある。

その信仰や希望について、説明を求める人には、語る備えをしていよう。難しく
考えずに、主にどんなに励まされ、助けられ、又、喜びや力をを与えられている
か、どんなに感謝しているか、素直に語れば良い。それこそ生きた証しだ。

「ただし、優しく、慎み恐れて」とあるように、「自分は正しい」に立つと相手
の上に立つので(自分では見下しているつもりは無いのでやっかいだが)、相手
に届かない。
へりくだって、優しく語れるように。優しさこそが人の心を捕らえて、神のもと
へ導いて行く。

決して押しつけがましくなく、謙遜に、心にある希望と喜びを語って行こう。愛
や優しさは、御霊からのものであり、御霊の助けと導き無くして不可能だ。

日々主と交わり、「説明を求める人」質問して来る人に、いつでも証しできるよ
う、祈って備えていよう。チャンスは突然に来る。

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主との生き生きとした、交わりの中にいよう。難しい事を話してもわからない。
どんなに嬉しいか、主がどんなに良くして下さったかを語ろう。それが生きた証
しだ。「愛、喜び・・このようなものを禁ずる律法はありません」喜びは否定がで
きない。