2009年08月30日(日)

「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10:22                             

人間には良心が与えられていて、その良心は、罪を犯すと、とがめを感じる。そ
のとがめを無くしたいがために、良い事をする。

言葉で、態度で、人を傷つけた時に、良心がとがめ、平安が保て無いので、親切
な行いを返す。そして、プラスマイナスゼロにする。これで良心をなだめて良し
とする。

誰しもにあるかも知れない。しかし、これは、心がとがめるのが嫌で、自分の良
心を何とかしたいだけで、神への愛や、相手への愛などまるで無い。自分の事だ
けで、実は自己中心だ。

ある人は犯した罪に対するとがめから、懸命に奉仕したり献金している事に気づ
いた。神のために良い事をして、自分の良心をなだめ、罪滅ぼしをするのだ。

それで神に認めてもらおうとし、偽りの平安を得る。人は知らぬ間に、これを
繰り返している事がある。これは「邪悪な良心」だ。

良い事をして、神に受け入れてもらおうとの態度だ。そうであれば、主の十字架
は無意味になる。主はいたずらに死なれた事になる。この良心はきよめられる必
要がある。それはただ十字架の血潮によってきよめられる。

神に行ないで受け入れてもらおうとの、死んだ行ないから離れさせてくれる。主
の血によって良心はきよめられ、赦され、どんな時も恐れなく御前に行ける。

自分の行ないではない。ただただ、主の血潮に拠り頼もう。そこから真の安堵と
何にも揺るがない平安、喜びが来る。

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神様へも、人へも「ごめんなさい」を回避したくて、良い行ないでチャラにする。
プライドが最も避けたいのが「ごめんなさい」だ。しかし、神は砕かれた、悔い
た心を最も喜んで下さる。血により赦され、そして、平安に満たされる。