2009年09月29日(火)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神の栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44



私たちを不自由にし、窮屈にし、がんじがらめにするものに、「比較」がある。これは誰しもにあり、やっかいだ。自分の能力や成績や人気を、他人と比較する事によって、自分の価値を見い出そうとする。

自分の価値を認めたいがために、他人と比較する。他人より優れている事でプライドを満足させ、優越感に浸る。それは根に劣等感があるからだ。
劣等感があるから、優越感に浸りたい。そして、人との比較で自分の価値を確認し、優位を確認することは人依存で生きているということだ。

そしてそれは、人の目を極度に気にする。人にどう思われているか、人に良く見られたい、人に認められたい、評価され受け入れられたい。神が飛んでしまって、人が神となっている。ゆえにそこに全く平安は無い。

パリサイ人たちは自分のプライドに生きた。大切なのは自分のメンツとプライドだった。だからそこに愛は無かった。真反対に、主はメンツ、プライドとは全く関係の無い、愛に生きられた。

人間はプライドで生きていて、それが双方でぶつかり、争いになる。サタンはプライドに誘惑し働いてくる。比較、劣等感、人によく見られたい思い、プライド、一つ一つを主の前に認めることが大切だ。自分がそのような者である事を認める時に、初めて変えられて行く。
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今していることは、一体誰を喜ばせようとしているのだろうか。心に平安がなくなる時よく自分を吟味してみよう。人との比較や争いの思い煩いに流されてはいないだろうか。神様の栄誉を求めていこう。