2009年11月29日(日)

「もしあなたが、誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」ヘブル12:7

クリスチャン人生を勘違いする。毎日〃楽しい事ばかりで、受験や就職試験はす
べて合格、商売は繁盛、家族は健康で、最後は天国で、めでたし、めでたしと、
終わると。それが祝福だと。

祝福とは、幸せで楽しい事、問題が何も無く、順風満帆のことだと思う。だから、
ある日突如として、夫はリストラ、妻は病気、子供は受験失敗にでもなろうもの
なら、パニックになる。こんなはずではない。「何で?何で?」周囲の未信者か
らは、そんな事では信心している意味がないと言われる。

その内、不平不満が爆発する。しかし、聖書は、そんな事は全く言っていない。
信仰人生、順風満帆で問題が何もないなどとは、一言も言っていない。むしろ、
多くの箇所に、試練、訓練、鍛錬、懲らしめ、刈り込みと出て来る。

新しく生まれたからこそ、その新しい性質が成長して行くよう、多くの訓練が与
えられる。それは神の愛だ。「愛」をも勘違いしていないか。何かほんわかと暖
かく包まれるような、嬉しい喜ばしい感情的なもの、ラッキーな事、ハピーな事
が愛されている事と。

しかし、聖書は懲らしめが愛だと言っている。「主はその愛する者を懲らしめ」、
必要な事は、根底の価値観を修正する事だろうか。試練、訓練、刈り込みは、神
の愛だ。深く愛されている証拠だ。ますます深く主を知って行ける。

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クリスチャンもノンクリスチャンも同じ事が起こる。問題や困難はどんどん来る。
ただ一つ違うのは、信仰者はどんな苦しい試練の中でも、主に向き、祈る時「主
の平安」が臨む。状況は一切関係無い。心に平安を下さる。そして問題は必ずあ
るが、問題を必ず乗り越えて行ける。