2010年02月27日(土) 「御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」Tコリント3:1
「御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」Tコリント3:1
霊的に誕生した私たちも、身体の成長と同様、霊的に赤ん坊から大人へと成長し て行く。幼子を肉に属する人、大人を御霊に属する人と言っている。救われてす ぐは、誰しも皆、赤ん坊だ。乳飲み子であって当然で、養われ、育てられて行く。 背伸びする必要は全く無い。一歩一歩手を取って主が導いて下さる。しかし何十 年経ても、もし私たちがずっと身体的に赤ん坊のままならどうだろう。おかしな 事になる。同様に霊的にも幼子から少年、成人へと成長して行く事は正常な事だ。 幼子の特徴は、妬み、争いだと記されている。人の持つものを欲しがり、自分に 無いとすねて、ひがむ。腕力で自分のものにしようとする。自分のものにならな いと、嫉妬し、嫉妬は憎しみへと増幅する。 又、幼子は自己中心だ。双方で自分の事しか考えられないなら、争いは必至だ。 喧嘩が当然の結果であり、トラブルメーカーになってしまう。幼子は愛される事 だけが関心事で、愛のメッセージだけを聞きたがり、痛い罪の指摘は聞きたくな い。常に愛されている事の確認だけで、そこで止まっている。 大人は聖化される事、痛みは伴うが訓練、鍛錬され、自我が砕かれる事、自分に 死ぬ事、成長する事に目が向く。自らの弱さや罪を知る事は非常に痛いが、向き 合おうとする。そこからしか成長は無い。何年経っても、思い通りにならないな ら、ひっくり返ってわめく幼子なら悲しい。 神の御心であり、神の喜ばれる事は私たちの成長だ。そして「成長させて下さる のは神」だ。自分の何が問題で、どこが変わるべきか、神に聞いて行けるなら、 すでにみわざが始まっていて、神はその祈りに必ず答えて、一歩一歩導かれる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 聞きたくない御言葉、痛い御言葉があるだろうか。聞きたくないという事は、自 分の心がそこに問題があると、薄々わかっているという事だ。そこを祈って行こ う。解き放ち、平安にして下さる。状況や相手でなく、自分を変えて下さる。