2010年07月30日(金)

「・・わたしの時はまだ来ていません」ヨハネ2:4  


婚宴の席で、ぶどう酒が無くなった。当時の披露宴では、ぶどう酒は重要で、途中で無くなるなど、主催者の取り返しのつかない失態となる。心配し配慮したマリヤが、主に「ぶどう酒がありません」と言った。主イエスに言えば、何とかなるとの心だったに違いない。

しかし、主はマリヤの言葉によってではなく、御父の御心によって動かれる。「わたしの時はまだ」との言葉に、しかし「あの方が言われることを、何でもするように」と手伝い達に告げたマリヤは、主が最善をして下さると信じた。結果的に主は奇跡をされ、上質のぶどう酒を備えて下さった。

信じるとは、主にいっさいを任せることだ。「時」も主の御手の中だ。しばしば祈りの中でも、早く答えが欲しくて、早く早くと焦る。神の時を待てない。待てないので、絶えず不安と思い煩いに襲われる。いつも欲求不満状態だ。委ねる事ができないところに原因がある。

又、実際に、「主の時」を待てないで、自分で行動してしまう。自分が良いと思う事を、自分の思う時に行動する。そして失敗する。アブラハムがイサクを待てないで、イシマエルを生み出したように。

信じるとは委ねること。主は最もふさわしい「時」をすでに備えていて下さる。だから安心して祈って行ける。そして、行動する「時」でないなら、目に見える動きは無いかも知れないが無駄は一つもなく、神を深く知る「時」とされる。
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いつまで待つのか、事細かに示されたなら安心するのにと思う。自分の思いが強ければ強いほど、ただ待つという事は、信仰が試される。待っている時にも主が先立って導かれている「時」の中で守られていると自覚していよう。最善の確信と平安が与えられる。