2011年11月29日(火)

「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15


二人の弟子は、主が復活されると、何度も聞いた。そしてその復活を見たという人の話も聞いた。が、尚かつ、信じたならとどまるべき地エルサレムを離れて、郷里エマオに向かった。主の復活を信じなかったからだ。二人の弟子達は目がさえぎられていた。

そんな二人のもとに主が来られ、二人のかたわらを歩かれた。しかし、かたわらの方が、主イエスだとは全くわからなかった。なぜなのか。御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。彼らの不信仰が目をさえぎっていたと。復活を信じない彼らにとっては、主が死んでしまい、深い失望と落胆の中にあった。悲しみもあった。

私達も同様だ。失望の中にいる時、主が見えない。かたわらにおられる主が見えなくなる。「失望」とは、期待を主に向けない、主を見限った不信仰だ。不信仰は私達の心をふさぎ、ふたをしてしまい、主を全く見えなくする。又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、ただ見えるのは自分だけだ。自分しか見えない。

又、「不安」も目がさえぎられる。思い煩いにおおわれ、心配の山だけが見えて、主が見えない。「多忙」も次から次へと来る目の前の事柄に心が捕らわれ、主を認める事をさせなくする。あなたも今、目がさえぎられているだろうか。障害物に気づき、悔い改めよう。今もあなたのかたわらに主がおられる。
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失望、落胆、不安・・一番辛い時に主は沈黙しておられるかのように思えるが、主がかたわらを歩み、支えて下さっていることを信じよう。目をふさいでいる心配の山も主はすべてご存知だ。