2012年05月30日(水)

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはべつの方を待つべきでしょうか」マタイ11:3



信仰生活の中で、神に対し、信仰に対し、心が揺らぐこと、わからない事、つまづいてしまう事が出て来るかも知れない。今も、あるだろうか。主は、その心の痛み、つまづきをご存じだ。愛し、慈しんで、目を留めていて下さる。そんな時は、どうすればよいのか。バプテスマのヨハネに学ぶことができる。

ヨハネは人々に、メシヤが自分の後から来られる。その方は、自分よりも優れた方であり、聖霊と火でバプテスマを授けられる、そして、麦と殻とをより分け、麦を倉に納め、殻は消えない火で焼き尽くされると告げた。それがヨハネのメシヤ像だった。神の義により、逆らう者たちを滅ぼし尽くす裁き主だった。ヨハネは厳しい裁きを伝え、悔い改めを説いた。メシヤがそれを成し遂げられると信じたので、自分の命を賭けた。

獄中で、そんなヨハネが弟子からキリストのみわざを聞いた。ヨハネが思い描いていたメシヤ像と、実際の主の姿が何か違う、一致しなかった。ヨハネが思い、期待したメシヤ像ではなかった。その時、ヨハネはどうしたのか。弟子を遣わし、直接、主に問うている。「おいでになるはずの方は、あなたですか、それとも別の方ですか」と。あなたは本当にメシヤなのかと直接尋ねている。

主は現実に起きている事実を示し、一つ一つが旧約預言の成就である事を示し答えられた。私たちも、あなたは本当に神なのかと、つまづいている事があれば、直接主に聞けばよい。主は答えて下さる。
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私達も自分の理想に神様を近づけ、自分の目線に引き下げてしまう。自分こそが神様の見ているように物事を見られるよう祈ろう。目が開かれ、神様の深い計画を知れますように。