2012年06月29日(金)

「ヨナは、主のみ顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3


ヨナは、ニネベに行けとの神の命令が、嫌で不満だった。ニネベとはイスラエルを脅かすアッシリヤの首都であり、そのニネベが神の裁きに会い、滅びる事を願っていた。なぜあの宿敵のもとへ行かねばならないのか。すると、丁度そこに渡りに舟、反対行きの船があった。それで、好都合とばかりに、それに乗って逃れた。嫌な事は避ける事が出来たが、結局それは、主の御顔を避けてしまう事になる。

しかし主は、何もかもをご存じだ。「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます」信仰生活には時として、したく無い事、避けたい事があるものだ。肉は逃れてしまいたい。しかし、生活のすべての事は、神の配剤の中にあり、必要ゆえに与えられている。それを通して、主は私たちを鍛錬し、聖め、成長させたいと願っておられる。

プライド、虚栄心、頑なな自我を砕き、御霊の実を結ばせようとのご計画がある。頑固な自我は、どこまでも自分の思い通りにしたい。放っておかれると、自分の欲望に沿って、自分の好きなように生きてしまう。逃げるなら、霊的な成長を逃してしまう。今、目の前に、逃れたい事態があるだろうか。

ヨナは自分中心にしか見ていないため、神のお心がわからなかった。しかし、自らの自我に気づき、悔い改めた時に、間に合う主の器として用いられた。目の前の状況から逃げて、主の御顔を避けるだろうか、それとも向き合って、主に従うだろうか。
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自分の選んだ事だけしていたい、その時だけ主に向き合えばいい、の自分中心の信仰では何も変わらない。いつも問題は目の前に来る。主と共に立ち向えるチャンスだ。感謝して受け取り従って行こう。