2012年09月29日(土)

「『歩きながら、ふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった」ルカ24:17


エマオ途上の二人はどんな気持ちだったろう。とぼとぼと、足取り
も重く別に郷里に帰ったところで、何があるわけでもなし、失望と
落胆、うつろな心だったろう。現に主の復活が起きて、罪も死も飲
まれ素晴らしい勝利が輝いている、それが現実なのに、今それを手
に出来るのに、彼らは下を向き、空虚な、暗い重苦しい中にいた。

まさに「暗い顔つき」だ。私達の姿だろうか。思い煩いと不安と不
信仰の中にいるだろうか。よみがえりの主が、私達のかたわらにお
られるというのに。「目がさえぎられていて、イエスだとわからな
い」、御言葉を信じないという事だ。主のよみがえりを信じない。

不信仰の目には、主が見えない。しかし、主はそんな弟子の、私達
のかたわらを歩んで下さっている。それゆえ主は御言葉を説き明か
された。その御言葉に真剣に聞き入った時に、暗い落ち込んだ重い
心が「うちに燃えていた」。

失望落胆や疑いにある時、主の語って下さる御言葉に耳を傾ける事
だ。信仰は聞く事から始まり、聞く事は御言葉による。御言葉を受
け取る時、信仰が与えられる。振り返る時どうだろう。何度もダウ
ンするが、主が語られる御言葉によって、もう一度引き上げられた
のではないか。ダウンしている最中も、主は変わることなく、あな
たのかたわらにおられる。

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エマオへの途上、主ご自身が近づいて、彼らと共に歩かれた。失望
落胆の時、暗い顔つきの時、私たちを引き上げようと、主が近づい
て、かたわらで語りかけられる。主のほうから近づいて下さるとは
何と大きな慰めだろう。何と感謝なことだろう。