2012年10月30日(火)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8


人は誰しも失敗する。しかし、主は豊かに赦して下さり、益として下さるとは何という恵みだろう。その失敗から学べばよい。だが、いつまでもたっても同じ失敗をするのは、問題だ。痛い思いをし、次に失敗をしないように、気をつけているに関わらず、同じ失敗を延々繰り返す。問題はどこにあるのだろう。真に自分が悪かったと、認識していないからではないか。

本音では「自分のせいではない。仕方がなかった。どうしようも無かった。相手だって悪い」むしろ自分は悪くない、被害者だと思っている。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちの内に無い」自らの罪を認めず、罪は無いと言うので、自分を欺いている事になり、それなら真理は自分の内にないという事になってしまう。

又、真に罪を理解せずに、形だけ認めたとしても、赦しにあずかれない。仮に、自分では赦されたと自分でなだめても、主の御前に告白していないので、罪の赦しは無く、平安も無い。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っている」。しかし罪を告白するなら、全き赦しがある。

罪は御霊によって初めてわかる。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」言い訳せず、弁解せず、自分を正当化せず、主の御前に立とう。告白するなら完全に赦される。そこから新しくされる。
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失敗から学べず、自分の罪をごまかしているなら失敗したことにも目をそらしてしまう。闇の中に入ってしまう。御霊によって罪が示されるということはなんと深い神様のご愛で、感謝なことだろう。