2012年11月29日(木)

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」ルカ22:3



ユダは、祭司長たちと、どのようにして主を引き渡そうかと相談した。主に口づけしようとして近づき、それが合図であった。そして主は捕まった。ユダは目前に繰り広げられる事態に驚き、慌て、後悔した。しかし、祭司長たちに「私たちの知ったことか。自分で始末せよ」と言われ、銀貨を投げ、首をつった。

主はユダを弟子に選び、裏切る事がわかっていても、足を洗い、へりくだり、愛し通された。ユダが裏切るために近づいた時も「友よ。何のために来たのですか」と、「友よ」と最後まで、愛を示し、悔い改めの機会を与えられた。しかし、ユダは主を裏切った。どんなに愛されても、その愛を拒否することができる。私たちをロボットに造られなかった。自由意志をどこまでも尊重される。自由に愛することができ、自由に拒むことができる。主はその選択を受け入れられる。

「悪魔はすでにユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」サタンはまずユダの心に思いを入れた。サタンは欲望の権化だ。「欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをする」欲望を遂げようと、盗み、姦淫、殺人と罪を犯させる。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている・・それを治めるべきである」「悪魔に機会を与えないようにしなさい」

ユダは、思い通りでない主への失望と怒りが、サタンに機会を与えて行ってしまった。私たちも、赦せない思いや、怒り、妬み、憎しみでサタンに機会を与えてしまっていないか。そのまま主のもとに持って行こう。主は豊かに赦して下さり、サタンの足場を崩して下さる。
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御霊に導かれることも、サタンに引かれて行くこともどちらも自由意志だ。勝手な思い込みや、自己中心の不平や不満がサタンに煽られてしまう前に主に告げ、悔い改めよう。罪の結実から守られる。