2013年05月30日(木)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


職場、学校、家庭、近隣・・人が集まれば、必ずと言っていいほど問
題が起きる。対人関係で、もめて悩む。なぜ、いさかいが起こるの
か。人は、皆、罪を持っているからだ。罪の性質があり、自我があ
るから摩擦が起きる。

教会内でも同じだ。クリスチャン同士でも、まだ肉の性質があるの
で、争いが生じる。自己を主張するなら、ぶつかって当然だ。しか
し教会の交わりは、この世の交流会と全く異なる。目的が違う。そ
れは、クリスチャンの交わりは「イエス・キリストを中心にした」
交わりだ。どこまでも主が中心だ。

自分たちの好み、楽しみでなく、趣味でなく、主の栄光のための交
わりだ。「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を
現わすためにしなさい」と。キリストが接点であり、一人一人が主
を求めて行く時、秩序と調和があり一致がある。

そこが、ぶれてしまうと、「主は、主のお心は」ではなく、「自分
が、自分が」となり、「自分の気持ち、自分の意見」が通らないと、
不一致が生じ、分裂となって行く。主はどうであったか。神が人と
なり、すべての特権を放棄された。神が人となられた、これほどの
へりくだりがあるだろうか。
自分を卑しくし、人に仕え、十字架の死にまで従順に従われた。自
分を捨てられた。このお心に従う時に、へりくだって、互いに人
を自分よりもすぐれた者と思える。

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交わりの中に、自己中心と虚栄が入ると、分裂が生じてしまう。「
自分が」「自分の」になって行く時、皆、バラバラだ。しかし、
「主は」「主の」となる時、一致する。主は一つ、御霊は一つだか
らだ。「自分は」を「主は」に変えて考えてみよう。