2013年10月30日(水)

「律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めに よって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」ローマ7:7



主イエスを信じたばかりの頃は、クリスチャンとは立派な善行に歩む人と思いがちだ。善い行ないに励もうとするが、やがて、善行ができない、御言葉を実行しようとするができないという現実にぶち当たる。善行をしようとしていない時は、何も感じないが、しようとした途端、出来ない。更に出来ないというより、したくない自分に行き着く。

誰しも自分はそこそこ良い人間と思っている。しかし御言葉を実行しようとする途端、良い人間でない事を知る。「貪ってはならない」と言われると欲しくなる。「見るな」と言われると見たくなる。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです」禁止されると、むくむくとしたくなる。神に反抗する性質があり、これが罪の性質だ。そしてこの性質はどうにもならない。私たちは罪の奴隷だ。

普通、自分を良い人だと思っているが、「私の肉のうちには善が住んでいない」、全く善が住んでいない事を知る。内側にある罪による。「いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった」。葛藤を通して、いのちの御霊の歩みへと導かれる。自分の力でしていた事を委ねる事により、御霊によって成し遂げられる事を知る。
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自分でしようとすると必ず出来ない自分にぶつかり、また出来るとすぐに自己満足も感じる。この性格はどうにもならない。だから、主よ助けてください、憐れんでくださいとの祈りが、切に必要だ。