2014年04月29日(火)

「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって・・私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです」ローマ7:23 



律法は、自分の内の罪をあらわにする。しかし、律法が悪いのではない。律法自体は聖なるものだ。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」だ。肉が律法に反応する。「『むさぼってはならない』と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかった」とあり、律法に触れる前は、むさぼりが無いと思っていたのに、律法に「むさぼるな」と言われた途端、むさぼりがムクムクと頭をもたげ、むさぼりでがんじがらめになる。

ある人が玄関前の花鉢が何度か持って行かれ、「鉢をとるな!」と書くと、それがもっとひんぱんになってしまい、その書き物を撤去したと。「〜するな」と言われるとしたくなり、「〜せよ」と言われる事はしたくない。人間の罪の性質だ。戒めは、自分の内に罪があることを教えてくれる。戒めが無ければ、罪はわからない。〜しなさいとの戒めがくる時、出来ない自分を発見する。

「敵を愛しなさい」が、出来ない。出来ないと、肉は頑張ろうとする。尚も出来ない。すると、更に頑張る。しかしどれだけ頑張っても出来ない。経験あるだろうか。自分にはとことん出来ない事を知る。これで律法はその目的を達成した。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」。自分に出来ない事を教え、キリストのもとへ導く。出来ない事を認め、主に拠り頼む時に、不思議に御霊の力によって出来て行くことを経験する。
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頑張って愛の行為ができると良いことをしたと誇りたくなる自分がいてまた罪が見える。自分にはどうしてもできないと認める度に、主に助け求めていける。感謝だ。