2015年08月30日(日)

「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。い や、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応 じて、慎み深い考え方をしなさい」ローマ12:3


「思うべき限度を超えて思い上がるな」とある。そのすぐ後に「分
け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をせよ」と。思
い上がるとは、偉そうな、人を見下したような姿を思い浮かべるが、
ここによると、思うべき限度を越えた態度であり、信仰の量りに応
じて慎み深い考え方をしないこと、という事になる。

それが高慢で、不健全な態度だと。本当の慎み深い考え方とは、そ
れぞれに与えられた霊的賜物を用いて、主と人々に仕えることであ
ると。つまり「慎み深い考え方」は、決して「自分はダメだ、何も
できない」と考える事ではなく、自分に与えられた賜物が、主から
与えられたものと感謝して受け取り、それを用いて行くことだ。

又、私たちは、「信仰の量り」によって、物事を見て行く。人間的
に、肉の判断で、この世の価値観で見るのでなく、御言葉を鏡とし
て、自分を見、御言葉に照らし出して、物事を見て行く。この世の
価値観は、内側は見えず、外側しか見えないので、その外側を良く
見えるように繕って行く。

しかし信仰による考え方は、見えない内側も、正直に主に、そのま
まを認めて、委ねて行くことだ。「愛したくありません」「信じる
事ができません」「従いたくありません」・・その時、その自分が受
け入れられ、愛されていることを体験し、出来るように変えられて
行くことを経験して行く。

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思うべき限度を越えないとは、御言葉に照らされた事実を直視して
行くことだ。ありのままを受け止めて行くことだ。肉は、自分など
はダメだと思い、又、逆に自分こそはと高慢になる。御霊の示し
を受け取りつつ歩むところに、謙遜があり、平安がある。