2015年10月30日(金)

「私のことばは、その時が来れば実現します」ルカ1:20



「求めよ。そうすれば与えられる」、主は、私たちに、祈れと言わ
れる。祈りを喜ばれる。しかし、どんなに祈っても、祈りが答えら
れない経験があるだろうか。熱心に求め、祈っているのに、答えが
無い。それは、祈りの答えには、「神の時」があるということだ。

「天の下では、何事にも定まった時期がり、すべての営みには時が
ある」「神のなさることは、時にかなって美しい」と。神が目的を
もって、答えられる時を遅らせておられる。御心に適っていないの
でなく、御心であるが、神が最善の時を定めておられる。私たちが
思う「時」と、神の「時」とは、時々異なる。神のタイミングは、
神の栄光が最高に現される時なのだ。

私たちは、しばしば「今こそ」と思うが、神のみ思いは更に高く、
深い。ラザロが死に直面していた時、マルタとマリヤはどんなに主
を待ちわび、心が急いた事だろう。主なら病気を癒す事が可能だ。
一刻も早くと、今か今かと。しかし、主は断じて動かれなかった。
尚2日もとどまられた。ラザロの明確な死を確認してから動かれた。
主の御心は病気を治す事ではなく、よみがえらせる事であった。

墓に葬られ、もう腐っているという、不可能のダメ押しのもとで、
主は奇跡をされた。ラザロを死からよみがえらされた。遅れたので
はなく、主の栄光が現される最善の「時」であった。「神の時」が
ある。すでに聞かれていると信じ、答えが目に見える形で現れて来
る「神の時」を待とう。
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神の時が悟れるようにも祈ろう。自分の意欲や都合で、今この時に
と思うが、そのようなものの全く及ばない神の働かれる時が来る。
信じ、期待して待とう。