2016年02月28日(日)

「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、 その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさ い」ガラテヤ5:13 



自由は放縦と違う。放縦は、「肉の働く」とあるように、肉の思い
のままに、自分の好きなように、思い通りに生きることだ。「肉の
行ないは明白であって」不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵
意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、酩酊、遊
興・・と。自分を中心に生きて行くことが、肉の行ないとなる。

「自分が」「自分が」と自我が出て、自分の力で、自分の思いで生
きて行く。例えば、嫌いな相手がいると、敵意や、怒り、憎しみが
心に湧き上がる。肉は、放っておかれ、流されるままになると、更
に憎しみが増して行く。悪口や批判となって現れ出る。

つまり、肉の働く機会とする事になる。しかし、本当は憎むことは
不自由で、苦しい事だ。心は辛く、重苦しい。「自由を与えられる
ために召された」。本当の自由は、御霊に従うところにある。「愛
をもって互いに仕えなさい」、愛することが、実は自由だ。

肉の性質は、嫌いな相手は憎むことが自由だと思う。しかし、愛す
ることこそ自由になる道だ。愛し仕える事は、意志であり決意だ。
選び取ることだ。生まれつきの性質には無い。自分しか愛せない。
肉は流されたままの行ないだ。

しかし、愛する事は、祈り、決心し、選択し、御霊に明け渡して行
く時に、成し遂げられて行く。愛して行く時、自由と喜びを経験す
る。

・・・・・・・・・・・
自由とは好きな事をする事でなく、御霊に従うところにある。どん
なに肉が逆らおうと、御霊に従って一歩一歩を歩む時、心に主から
の平安を経験する。御霊の喜びを知る。従おうとする者を、御霊は
助けて下さる。選択の一歩一歩だ。