2016年08月30日(火)

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」ローマ4:5




御言葉は、神は不敬虔な者を義と認めて下さる方だと言う。普通の
考えなら、敬虔な者が義と認められる。敬虔というのは、信仰深い
ことであり、主を深く敬うことだ。主を深く敬い、品行方正な人が
義と認められるのは、何となく納得が行く。だが、不敬虔というの
は、罪深く、自分が醜く、汚れていて、良いものが何も無い状態だ。

それが義と認められるという。そんな事があるのだろうか。通常の
価値観なら、思いもよらぬ事だ。例えば雇用関係なら、時間と労力
を提供して、賃金という報酬を得る。労働力に見合う対価が支払わ
れる。しかし、何の労働もしない者が、賃金をもらえるなら、これ
は報酬でなく、プレゼントだ。

あのぶどう園の労務者の箇所でも、早朝の者は1デナリの契約を交
わし、1日働いた。そして1デナリの賃金をもらった。これは給料
であり報酬だ。しかし5時に雇われた者も、1時間働いただけで、
1日分もらった。もうほとんど片づけに入る時刻だ。主人は惜しげ
もなく与えた。主人の側の気前良さによることだった。

これは恵みであって、私たちも同様だ。罪しか犯せず、正しい事な
ど何一つ出来ない私たちを主を信じるなら、正しい者とみなし、認
めて下さるのだ。主十字架の贖いによることだ。失敗した時、サタ
ンの攻撃を受ける時、主が不敬虔な者を義と認めて下さる方であり、
信仰によって救いが与えられる事を覚えよう。
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信仰が義というと、それなら敬虔にならなくてはと思ってしまうが、
ただ主の与えてくださる恵みを信じ、心から感謝し受けることを主
は喜んでくださる。またそれしか出来ないと者と覚えていたい。