2017年08月30日(水)

「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」ローマ6:8 


ローマ7章を例えると、完璧主義者の夫がいて、毎日、家中を点検
し、ほこりやゴミをチェックする。料理は毎回まずいと言い、料理
の仕方をあれこれ指図する。行動の一つ一つにもチェックが入り、
すべてにおいてダメ出しだ。何をしても夫を満足させる事はできな
い。

悩んで、落ち込んで、ノイローゼになりそうだ。こんな夫と別れた
いが、不可能だ。これ以上自分はやって行けない。夫が死ねばよい
が、それもあり得ない。どうすればよいのか。この夫が律法で、妻
が私だ。要求ばかりされて、責められて、しかし、求め通りに行な
う事はできない。苦しくてたまらない。

律法が死ぬ事はあり得ず、解決の道は、妻が死ぬ事だ。死により契
約から解き放たれる。これがキリストがして下さった事で、私はキ
リストが十字架上で死なれた時に、一緒に死んだ。そのため律法に
対して死んだ。そして、もし親切な愛深い夫ならどうだろう。

指図し、命令するだけでなく、掃除や料理を一緒にしてくれて、助
言と共に、出来ない事を一つ一つ実際に助けてくれ、共に負ってく
れたらどうだろう。そんな夫なら妻は自発的に自由意志で愛をもっ
て従いたいと思う。これが十字架で死なれたキリストと共に死に、
よみがえられたキリストと共に生きることだ。
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主と共に生まれた新しい命にあって生きていく。何度も繰り返し覚
えたい。律法に迫られてするのは、それがどれ程良いことでも自分
のためではないのか。そこから解放された。主のために生きよう。