2018年05月30日(水) 「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである」マルコ5:28
「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである」マルコ5:28
一人の女性が、12年もの長い間、長血を患っていた。気が遠くなる ような話だ。長血は不浄とされ、礼拝へ出ることもできなかった。 辛い身体的苦痛の上に、更に精神的苦しみ、又、経済的にも、次々 とあらゆる医者にかかり破綻状態だった。あちこちの医者へと渡り 歩いた事だろう。 悪徳医師に、ひどい目に会わされて、お金を絞り取られ、持ち物を みな使い果たしたと。身体は治らず、資産は使い果たし、この先に 何の希望もなく絶望状況であった。瀬戸際でいかばかりの苦しみだ ったろう。主の着物にでも触って、癒されたいと、切なる思いで救 いを求めた。それはもう必死のあがきであり信仰であった。 なぜなら、不浄のため、他人には触れる事が禁じられていた。にも かかわらず主に触れようとした、諦めない信仰であった。信じなけ れば、触りなどしない。ひどい痛みが消え、病気が治った彼女は、 誰にも知られずに密かに立ち去ろうとした。しかし主は、「わたし にさわったのは誰か」と捜され、これはどうあっても隠しおおせな いと悟った彼女は、自ら進み出て、皆の前で、事の次第を話した。 人の後ろに隠れ、人混み紛れ込み、おどおどしていた彼女が主の御 前に、皆の前に出て、人に言えない事を余すところなく打ち明けた のだ。主は、彼女をそのまま帰らせず、彼女の口から、はっきりし た信仰告白を引き出そうとされた。なぜなら彼女には信仰があった からだ。彼女を光の中に出し、信仰を告白させ、その信仰を確かな ものとされた。 身体と共にたましいも救われた。「あなたの信仰があなたを直した」 「安心して行きなさい」私たちはどうだろう。群衆に紛れているだ ろうか。主は向き合って下さっている。今、自らへの主の示しに応 答しよう。 ---------- なりふりかまわず主に求め救われたが、時と共にどこか取り澄まし た態度で主に接していないだろうか。癒されたい、解決したい事の 一つ一つをひれ伏し主の御前にはっきりと出していこう。