2019年06月29日(土)

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なこ とではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」ガラテヤ5: 6


こんな話がある。結婚したのだが、非常に厳しい夫だった。とにか
く細かくて、うるさくて、妻のする事なす事、不足で気に入らなく
て、文句ばかりだった。妻は、毎日、夫から家事リストを渡される
が、常に不完全で、欠けだらけで、成し遂げる事など到底できなか
った。

毎日、不具合を指摘され、責められ、叱られては、落ち込み、怯え
て、ビクビクしていた。結婚生活は悲惨であった。喜びも楽しみも
なく、辛いばかりで、又、出来ない自分を責めては苦しんだ。その
夫が死んで、その後再婚した。すると再婚相手は、全く違った。

落ち込みそうになるといつも励まし、失敗してしまうと慰めてくれ、
力づけてくれた。夫からいつも新しい力が与えられた。そして最も
違う所は、前夫は命令するのみであったが、今の夫は、いつも助け
てくれた。一緒に担ってくれた。夫との生活が、喜びと楽しみであ
った。

そして動機が違った。以前は、夫はどこまでも正しく、、正しい夫
に従うのは正しい事であった。しかし、今は、夫の愛に応えたいが
ゆえに、義務ではなく、自発的に、自由意志で家事をしていた。夫
を愛するがゆえだった。前夫と妻の関係は、律法と自分の関係だ。

自分で律法を行おうとしても、出来ない自分を知るばかりだ。行な
う事は出来ない。惨めな自分を知る。しかし新しい夫は、主だ。常
に寄り添い、共におられ、一緒に負って下さっている。正しいだけ
でなく、愛して下さっている。その愛から喜びと楽しみ、平安が流
れ出る。

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歩みが辛く、重く、苦しいなら、律法に陥っている。自分の力で行
っている。「神を愛するとは、命令を守ることであり、その命令は
重荷とはならない」とある。喜び無く重荷なら、主にありのまま祈
ろう。主が御霊に導かれた歩みへと正しく導いて下さる。