2020年12月30日(水)

「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」マタイ19:22



金持ちの青年が、永遠のいのちを得たいと「どんな良いことをした
らよいか」と主のもとに来た。主は、彼に「良い方は、ひとりだけ」
と答えた。主が、人が何かを行なう問題でなく、良い方である神の
問題だと言われたが、行なおうとの思いに満ちていた。主は、この
間違いを導こうと律法を持ち出された。

律法は、自分の力で守れない事、良い事ができない事を教えるため
にある。律法がいのちを与える事ができるなら、義は良い行ないに
よる。だが、すべての人が罪の下に閉じ込められ、義が、善行でな
く、キリストに対する信仰によるとされた。青年に、良い事は自分
ではできない事を教えようとされた。

「殺してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
しかし彼は「守っている」と答えた。しかし守れるはずはない。彼
は「何が欠けているのか」と。主は、財産を貧しい人に施すように
と。もし隣人を愛しているなら、すでに施していたはずだ。自力で
は、律法は守れない事を、主は認識させたかった。

だからこそ「良い方」がおられる事を。しかし彼はどこまでも自力
に固執し、主のもとを去った。私たちも、財産=自力、自分の行な
い、自分を捨てられないだろうか。自分では不可能だ。しかし主に
はできる。主のもとを去らずに頼り、取り扱っていただこう。
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自分の行いを頼っていると主の一方的な恵みの喜びを味わうチャン
スがなく、まだ何かが足りないとつぶやく。自分にはできないけど
主にはできる。子供のように主の元にいこう。