2021年02月27日(土)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、 あなたのことばを守ります」詩篇119:68 



問題や悩みは、誰も好きではない。辛い痛い目には会いたくない。
苦しみはできれば避けたいし、平穏な日々こそが、誰しもの願いだ。
人々が偶像を信心するのは、まさにそのためだ。問題の無い事が幸
せだ。しかし御言葉は、正反対のことを言っている。「苦しみに会
う前には、私はあやまちを犯しました」と。

苦しみがあったからこそ、過ちから救われ、今は守られて、主の言
葉に従う事がができていると。つまり自分が、過ちを犯したのは、
苦しみに会っていなかったからだという事になる。試練を通して、
砕かれ、練られ、鍛えられていないからだと。訓練されていないの
で、過ちを犯すと。

そしてまた、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました」と。苦しみに会った事を
通して、霊的学びが与えられて、主を知れて、幸せだったと。逆に
言えば、苦しみに会わない事は、不幸せだと。この世の価値観と、
聖書の価値観は何と異なる事だろう。正反対だ。

苦しみにより、そこでしか学べない多くの訓練を受ける。それは身
について来る。苦しみの中でこそ、主に拠り頼み、すがりつく事を
頭でなく、御霊によって、膚で知る。真剣に主に向かい、叉、自分
のこれまでも振り返り、主の御心を尋ね求める。自分の自我も見せ
られる。あれもこれも自我のゆえである事に気づかされる。主を信
じているつもりが、つもりであって、不信仰に気づかされる。

苦しみに会うのは痛いが、主が私たちに道を教えるためであり、そ
の中で、御言葉の力、御言葉によって生きる事を実際に知る時だ。

・・・・・・・・・・
試練や苦しみは、決して好きではないが、振り返る時、沢山の学び
を与えられたと感謝できる。砕かれ、練られ、訓練を受けて、祝福
とされている。主が量って与えて下さっている。これからも試練が
あるが、まずきちんと受け止められるよう、祈ろう。