2024年11月29日(金)

「もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることが でき、また求めるものは何でも神からいただくことができます。 なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なって いるからです」Tヨハネ3:21      


  
悩みの時、苦しみや悲しみでどうにもならない時に、まず頼るは主
であり、避け所だ。そして祈りによって、主のもとに行ける。何が
あっても、頼ることができて、駆け込める先があるとは、何と幸い
な事だろう。何と、安堵できる、嬉しい事だろう。しかし御言葉は
言う。自分が困った時に、大胆に確信を持って祈ろうとするなら、
普段から「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っている」こと
が大切だと。

すなわち、それは、兄弟が困っているのを見た時に、あわれみの心
を、閉ざしてはならないと。人が困っているのを見て、助けること
ができるのに、あわれみの心を閉ざすなら、自分自身が困った時に、
どうして心が責められずに、大胆に主の御前に出る事が出来ようか
と。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに
答えられない」。

他者の苦しみに対して、自分にできる事があるのに、耳を閉じ、自
分が困っている時には、助けて欲しい、それならどうだろう。心に
平安無く、とがめが来て、御霊によって祈る事ができない。心にと
がめがあるなら、それが妨げとなり、祈ろうとするが、確信もった
祈りができない。

祈りが妨げられないために、いつも大胆に御前に出られるように、
普段の生活で御霊に従う事が大切だ。御霊に示される事に、一つ
〃従おう。そうできるよう祈ろう。その時、とがめが無いので、
大胆に祈る事ができて、求めるものは何でも神から頂くことがで
きると。豊かな祝福にあずかって行ける。今、もし耳を閉じてい
るなら、そのまま主に祈ろう。  
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互いに愛し合うことは主の命令であると頭では理解していても、具
体的な行動に移せていない事を示される。無関心は、御霊の導きに
耳を閉ざしているからではないか。祈って主に従いたい。