2025年09月29日(月)

「あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわない なら、わたしはもはやあなたがたとともにいない」ヨシュア7:12



モーセの死後、ヨシュアが率いる民は、舟も橋も無い水が溢れるヨ
ルダン川を、主の奇跡で渡った。そして目の前に立ちはだかるエリ
コの城壁をも、主に言われた通りに行動すると、何と、城壁が崩さ
れた。主の奇跡だった。次にヨシュアはアイに、偵察を送った。す
ると彼らは「二、三千人で大丈夫」と戻って来た。

それでヨシュアは三千人を出すと、何と敗退した。想定外の大きな
事実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利を全く疑わなか
っただけに、大衝撃と動揺だった。奇跡のヨルダン渡渉、難関エリ
コ城壁崩壊は、大いなる全能の神が共におられる、その事がヨシュ
アの拠り所だった。

敗北の事実自体は、それらすべてをなし崩しにし、主の聖なる御名
はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうなるのか。敵は、
主の御名も、ヨシュアたちも、恐れるに足る対象では無くなってし
まう。ヨシュアは、この深刻な事態に「なぜですか」とひれ伏し祈
った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかし「大い
なる御名」こそが、この敗北を与えられたのだった。

全能の神は、同時に「聖い」神だ。「聖さ」に関心を持たれ、聖さ
のゆえに罪のある所に働かれない。聖く無い所では、敗北の方が、
神の栄光が現れる事になる。妨げは、神の側ではなく民の側にあっ
た。神は罪をあぶり出され、アカンの罪が発覚した。罪は主との仕
切りとなる。すぐ主に告白しよう。罪に対応し、対処した時に、主
は勝利を与えられた。
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失敗の原因は外側でなく自分の内にあるかも知れない。動機はどう
だろう。戦いにおいて、一番大切なことは、主が共にいてくださる
かどうかだ。罪があるなら排除し、主を中心にお迎えしよう。