2026年08月30日(日) 「私たちの古い人がキリストとともに十字架に つけられたのは、罪のからだが滅びて・・もは やこれからは罪の奴隷でなくなるためである ことを・・知っています」ローマ6:6
「私たちの古い人がキリストとともに十字架に つけられたのは、罪のからだが滅びて・・もは やこれからは罪の奴隷でなくなるためである ことを・・知っています」ローマ6:6
私たちは、キリストの十字架のあがないのゆえ に、キリストにあって「義人」だと、御父は見てお られる。すでに義人とされ、神の目から見たな ら、肉の中にはいない。自分の肉は、すでにキ リストと共に、十字架につけられた。しかし同時 に、天国に行くまでは、自分の内に新しい性質 と共に古い性質、肉もある。 それで、別の面からは「自分を捨て、自分の十 字架を負って」日々自分を捨てて、歩む必要が ある。泥酔やギャンブルや、憎しみ妬み等は、 ストレートな罪なので、わかりやすい。しかし 醜い自我と共に、心の偶像になっているのは、 もろに醜いものでなく、一見、美しく、麗しいもの かも知れない。 サウル王は「最も良いものを惜しみ、つまらない 値打ちのないもの」を聖絶した。私たちもどうだ ろう。最上のものは取っておいて、どうでもよい ものを捨てているだろうか。時間や労力を献げ て懸命に奉仕するが、実は、一番自分を喜ば せる自己満足、誇りやプライドが、隠れて潜ん でいるだろうか。 「山を動かすほどの完全は信仰」を持っていて も、自我が強く、自分の栄光のためという事が あり得る。自分を捨てなければ、結局、無に帰 してしまう。御霊は、自分に死ぬという事を、日 常生活で、様々な事柄の中で、具体的に指し 示して下さる。謝罪する事だったり、へりくだっ て批判を受け止める事だろうか。「古い人は十 字架につけられた」との信仰に立ちつつ、具体 的に示される一つ一つに従って行こう。示しに、 従うことが、自分を捨てることになる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 主のため、人のために、懸命に動き回り、仕え るのだが、その心に自分への評価、認められ、 誉められること、それを求める思いが潜んでい るだろうか。御霊に照らされ、導いて頂こう。