2026年08月03日(月)

「私には、善をしたいという願いがいつもあるのに、 それを実行することがないからです・・自分でしたいと思 う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行なって います」ローマ7:19



アダムとエバは、悪魔に誘惑され、主が禁じられた「善
悪の知識の木」から取って食べた。その結果、善と悪が
わかるようになったが、善を行う力は無い。それは、善
悪が「わかる」だけで、善に生きる事はできない。悲惨
な事になった。

悪魔が、食べるなら「神のようになり」と言ったが、違
った。善の知識があるが、自分の内に善が住んでおらず、
善は無い状態だ。パウロが苦しみ、「私の内に善が住ん
でいないのを知っています」と告白した。善を行なえる
と思い、頑張るが、善が住んでいないので不可能だ。

その私たちが、頑張って行なう善とは偽善で、偽善しか
できない。真の善は不可能だ。だからこそ、御父は御子
キリストを与えて下さった。どれだけ頑張っても、善は
行なえない事を知る時、祝福の道筋にいる。主に、ギブ
アップする事だ。自分の内に善が無い事を知った人が、
初めて真剣に主に頼る。

それ以前には、主に頼る事は出来ない。自分に頼ってい
るからだ。何とか頑張れば出来ると思っている。そして
肉は、自分の能力を誇りたい。能力を人に認められたい。
そこそこの無力は認めるが、どん底まで完全無力は、余
りにも惨めで認められない。プライドだ。

しかし、徹底無力を認めた時に初めて、十字架の血潮が
自分のためであり、完全に赦され、おおわれている実感
が来る。その時、自力でなく、御霊により善を行なえる。
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そこそこの努力で一喜一憂しているのではないか。無力
を認め、主に感謝し、御霊に導かれて進みたい。絶望の
中に、十字架の恵みが備えられている事に感謝だ。