2009年04月17日(金)

「わたしの民は二つの悪を行った。 湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」エレミヤ2:13



「わき水の泉であるわたしを捨てて」民は神を求めること、頼ることを止めてしまった。自力で、自分の思い通りに生きる事を好み、神を捨てて歩み始めた。

湧き水を捨てるため、心は乾いて、カラカラだ。そのために、こわれた水ためを、自分たちのために掘って行く。それはこれさえあれば、カラカラの心が満たされると思うものだ。

仕事、地位、名声、趣味、異性、金銭、学問、ギャンブル、酒、薬物、グルメ、旅行・・それらはすべてこわれた水ためだ。
次から次と対象を変え、様々なものを追い求める。

それは心が渇いているからだ。満たされていないからだ。
水ためが壊れているので、幾ら水をためても、どんどん流れ出てしまう。

決して心が満たされることはない。どうしてそうなるのか。
湧き水を捨てたからだ。湧き水なら、幾ら汲んでも、尽きることなく湧き出る。
多くの人がもっと収入があれば、素敵な異性がいれば、暖かい家庭があれば、生きがいのある仕事があれば・・幸せになれるのにと考える。

しかし、そうではない。それは壊れた水ためであり、真の幸せは湧き水である神を求めて生きることだ。神に満たされる時に、渇きがピッタリと止む。
尽きる事のない湧き水を得たからだ。方向違いに、壊れた水ためを求めていないだろうか。
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淋しい時、失望落胆の時も、いつも神様とともにいることの出来る人は、自分を見失うことも内側から渇くこともない。尽きない水を、いつも神様に求め、受けるからだ。