2009年05月21日(木)

『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って彼に言われた「よくなりたいか」』ヨハネ5:6


ベテスダの池で、38年病気で伏せっている人に、主は「よくなりたいか」と聞かれた。
38年もの間、病気だった人が、今、突然健康体になったなら、当然働いて、社会生活をして行かなくてはならない。

仕事を探し、住まいを探し、突然様々な責任が生じて来る。大きな喜び反面、厳しい現実になるかも知れない。私たちも日常で、変化を好まない面があり、現状に甘んじていれば楽だと思うところがある。

霊的状況に関してどうだろう。主は「よくなりたいか」と問うて下さっている。
自分の弱さを直視したくなくて、惨めさを認めたくなくて、突き詰めるのが恐い。

痛くて突き詰めたくない。底の部分をあいまいにしていたい。はっきりさせたくない。
はっきりさせるなら、従って行こうと決心するなら、払うべき犠牲にうすうす気づいている。

その犠牲は困る。心の底に、もやっ〜とした曖昧な部分を残していないか。
そこには触れず、見ようとせず、ふたをしている。主に従っては行きたいが、そこそこで、と思う。

しかし、それなら同時に神も、もやっ〜として見える事になる。どっちつかずになる。
突き詰めると困るので、自分が曖昧にしている。もっと生き生きした満ち溢れた喜びの信仰生活に進みたくないか。

「よくなりたいか」と主は常に問いかけて下さっている。強制される事はなく、そうしたいかと問われる。私たちの選択だ。
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変わりたくない、良くなりたくない部分が自分の内にないだろうか。本当に変わりたくないから、ずっと蓋をして曖昧にしている部分だ。主の問いかけに、まずその部分を認めていこう。