2010年01月21日(木)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばはあなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21



私たちは、御言葉を聞く機会が与えられている。礼拝や学び会を通して、個人のデボーションや信仰書により、様々な機会に御言葉を聞くことができる。

種まきの例えによると、それらの蒔き手は、主ご自身であり、土地は私たちの心だ。耕された土地に、種が植わると、発芽し、生長し豊かな実がなる。耕された土地とは、自分の事として受け取り、従おうとの態度で聞く、素直な心だ。

種が、地中深く埋まり発芽する。御言葉が、私たちの心の奥深くに入る時、私たちは新たにされる。神は決して無理強いをされない。いっさい強要されない。
御言葉を受け入れるのは、私たちの自由意志だ。自由意志に委ねておられる。

結局のところ、御言葉に対する私たちの態度は、二つしかない。受け入れるか、拒むかだ。拒否は無視だけでなく、ぼや〜と流す事も入る。種が無い限り、実がなる事があり得ないように、御言葉が心に入らない限り、私たちが変わる事も、成長する事も、主を知る事もない。

何か漠然と漫然と成長するのでなく、御言葉を聞いて、行なう事によって成長する。そして、すきやくわで、私たちの心が砕かれる時こそ、心がが耕され、柔らかい素直な土壌にされる。

その時、御言葉が心に染み入るように入る。今までは良い言葉、教訓、格言に過ぎなかった御言葉が、力を持って臨んで来る、いのちの言葉となる。
土地の問題であり、心が耕される事は大きな恵みだ。御言葉が全く変わって聞こえる。

神がすきを入れて土地を耕される時、痛く苦しいが、これを通して初めて御言葉が真に心に臨み、染み渡り、救いとされる。
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耕されていない心には、知識としての御言葉は記憶されても、種のように命あるものとして心の奥まで植わることはない。砕かれ貧しくされた心で御言葉を信仰を持って聞けるなら、痛みはなんと感謝な事か。