2010年10月21日(木)

「そのようなものは・・謙遜とか・・のゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」コロサイ3:23 


謙遜は、単なる自己卑下ではない。「ことさらに自己卑下を・・肉の思いによっていたずらに誇り」。自己卑下は肉のものであり、それは謙遜でなく、高ぶりだ。神の御前で、神に対してではなく、人前で、人に対してのものだ。自分をよく見せようとの肉であり、又、自己満足だ。パリサイ人も会堂や通りで施しをし、
通りの四つ角に立って祈った。

しかし、人に見せるためであり、肉の謙遜であった。肉の謙遜は、賢いもののように見えるが、肉のほしいままな欲望に、何のききめもない。主は謙遜であられた。その謙遜は、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。主の謙遜は、従順にあらわされている。どこまでも御父に従順であられた。

謙遜とは、主に「はい」と言うことだ。主の御心に「はい」と従うことだ。自分の思いが強いと、なかなか従えない。自分のプランや自分の思いの方がどう見ても良いと思えるので、自分の道を行ってしまう。しかし、それは自分が主の上に立ち、判断していることだ。

又、謙遜は、悩みのまっただ中で、主を信じて、主に委ねて行く。主の力強い御手の下にへりくだるとは、思い煩いをいっさい主に委ねる事だ。神が心配し、責任を取って下さる。今、主は、あなたに「はい」を求めておられるだろうか。
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人前を誇っている自我がある限り、答えを握っている思いがある限り、真実に主だけに頼り、主の守りを信じ「はい」と言うことは出来ない。自分では何も出来ない、自分のプランも御心ならばと、一つづつ肉を主に渡して行きたい。