2011年02月18日(金)

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」Tヨハネ3:17



時に、とてもじゃないが、好きになれない人がいるだろうか。いつも他人の悪口ばかり言う人、自分の自慢話ばかりの人、他人の批判をし、あら探しをする人、口を開けば不満と愚痴ざんまいの人・・。こちらが疲れてしまい、好きになるのは無理と思うかも知れない。

しかし、聖書にはどこを見ても、一言も相手を好きになれとは書いていない。「好きになれ」でなく「愛しなさい」と言っている。愛する事は、好きになる事ではない。好きにならなくとも、愛することはできる。だから、聖書の御言葉は実行できる。聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」だ。

浮き沈みの激しい感情的な愛ではない。愛するというと、感情を連想してしまうが、そうではなく、意志で愛することだ。感情はコントロールできない。しかし、意志はコントロール出来る。そう造られている。日々の生活の中で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事をし、自分の持っているものを与えることだ。

自分に出来ることをすればよい。それが愛するという事だ。現実の人生では、命を捨てるほどの大きな事は、よほどでないと起こらない。困っている目の前の人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出来ることを行なう事、それなら出来るのではないだろうか。今、目の前に、御霊に示されている事があれば、具体的
に行ないをもって、愛する事を実践しよう。神は「あなたは兄弟を愛した」と言って下さる。そして心安らかにおらせて下さる。
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今、その場で祈る事はできる。健康の守りや病の回復、また示された事を実際にして行けるよう祈れる。感情でなく意志ならどんな人間関係の中にも心を閉ざさず愛していけるかもしれない。