2012年05月21日(月)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」マタイ25:25  

一タラント預かった者は地に埋めた。一タラントは六千デナリで、一デナリは一日の給料分であり、一日一万円なら六千万円だ。たったの一タラントと思うが、社長の留守に、六千万を任される社員というのは、よほどの信任があるのではないだろうか。しかし、彼は、主人に対する理解が間違っていた。

蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい人、要求ばかり突きつけ、奪うばかりの人、恐い人、こんな主人のために、何かをしたいなどと思わない。もし減らしでもしようなら、どんなひどい事になるかわからない。関わりたくない。そのまま返すなら、文句は無いだろう。申しつけられた通りに、ちゃんと預かっておきました。彼の心の内であった。主人の彼への愛も信任も期待も、何もわかってはいなかった。

パリサイ人、宗教指導者たちは、こと細かに、懸命に、熱心に律法を守っていた。罰が恐い、裁かれないように、必死に律法遵守の生活をしていた。私たちの神観はどうだろう。いつも要求され、追い立てられ、従わなくては、罰される恐い神だろうか。それなら喜びなどあり得ない。

独り子をも惜しまずに与えて下さった、それほどまでに愛して下さった。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」と言われた主は、あわれみの主ではないだろうか。「主人の喜びをともに喜んでくれ」が主の心だ。主の心は喜びだ。間違った神観があれば気づけるように。
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神様は私達を愛し信頼ているゆえに多くのもの与えて任せて下さっている。決して蒔かない所から刈り取るお方ではない。与えられた今日一日を感謝し、主と共に、一歩でも主が喜ばれる歩みをしたい。