2012年06月20日(水)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4


信仰者には二つの性質があり、新しい性質と、古い性質がある。皆、生まれつきの性質、肉の部分がある。そして、誰しも持ってしまうものが「妬み」だ。妬みの性質は根深い。自分に無いものを、又、自分が欲しいものを持っている相手を羨む。しかし、心の底にある妬みを認めたくないために、相手の欠点をあげつらい、自分がこういう思いを持つのは相手が悪いせいと、自分を正当化する。

相手を批判し、難くせをつける、その動機の多くは、隠れた「妬み」だ。シーソーのように、人が誉められ高く上げられると、自分が下がり、けなされたように感じてしまう。他人によって、自分が上がったり下がったりするはずもなく、他人と自分は全く関係ないのだが、比較が入ると、やっかみが生じる。

人は、自分の中の自分で認めたくない心は押し込め、ふたをしてしまう事が出来る。それゆえ自分では、妬みに全く気づいて無い場合がある。心にザラッとしたものを感じる時には要注意だ。底にある妬みは、理由づけして正当化して相手への攻撃となり争いとなって行く。御霊の光のみが、心の奧にあるものを照らし出し、気づきを与えてくれる。光に出されたものは、どのようであれ祈りに持って行ける。そして、祈るならば、問題解決へと導かれる。
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相手が良ければ良いほど沸き起こる妬みは、自分で最も認めたくない感情だ。巧みに正当化して行く自分に気づけ、主の前に認めていこう。妬みから解放され、自分自身を生きていけるよう祈ろう。