2012年11月20日(火) 「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10:22
「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10:22
邪悪な良心とは、主の十字架の血潮だけでは、心が満足できないため、そこに行ないをプラスする。つまり、自分の善行によって、受け入れてもらおう、愛されようとすることだ。主の愛を得ようとして、受け入れてもらいたくてする奉仕や献げものなら、人間の力によるものであり、それは主の十字架を無意味にしてしまうものだ。 「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」の通りだ。主はいたずらに死なれたことになってしまう。良心のとがめが辛くて、嫌で、良心のとがめを無くしたくて、追われるように、奉仕や献げものや伝道をしているだろうか。そうなら、それは「邪悪な良心」だと言っている。何か良いことをして、良心をなだめたい。とがめを消してしまいたい。 例えば、悪い態度をとり、良心のとがめを感じると、親切な行ないで返して、自分の内でチャラにする。何か良い事をして、良心をなだめて、とがめを消そうとする。これは全く御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが、私たちの良心のとがめを消し去ることができる。御父へのなだめの供え物であり、とがめをきれいに取り去る。平安を与えられ、真心から神に近づくことができるようにされる。主の血潮以外のものがあるなら、きよめていただこう。主の血潮にのみ拠り頼もう。 --------------- まわりに良い証しをと思うあまり必要以上に高いハードルを自分で決め、失敗を素直に認められないのかもしれない。良かれと思ってする行いは神様と繋がっているだろうか。よくわきまえられますように。