2012年12月21日(金)

「いばらの中に落ちるとは・・みことばを聞きはしたが・・この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならない」ルカ8:14


ここでは、「みことばを聞きはした」と書かれている。岩の上に落ちた種と同じだ。「岩の上に落ちるとは・・聞いた時には喜んでみことばを受け入れるが」とあり、喜んでみことばを受け入れるが、試練になると身を引いてしまう。土の下には自我の強固な岩があって、根づかなかった。試練を与える主の主権、ご計画を認めず、受け入れない自我だ。その自我ゆえ、根ざせず枯れてしまう。

しかし、いばらの中に落ちる人は、従おうとしている人々だ。しかし、成長する途上で、同時にいばらも生えて来る。そのいばらの方がどんどん伸びて、いつしかみことばをふさいで行く。せっかく芽が出て、伸びようとしてるのに、いばらでさえぎられる。いばらとは、「世の心づかい」「富」「快楽」とある。

この世で生活する上の経済的なこと、仕事、家庭、健康などの心配、思い煩いだ。この思い煩いが大きくなると、みことばをふさぐ。思い煩いは一つ残らず主のもとにもって行こう。心配事と同時に、富への誘惑がある。富が将来を保障し、夢を実現させ、幸せを与えてくれると勘違いする。富を愛し富に頼るなら、みことばをふさいでしまう。又、心配事、富と共に、世の快楽、楽しいことに夢中になり、御言葉を聞きはしたが、ふさがれてしまう。これらの妨げを、主に明け渡して行く時、愛、喜び、平安の実を結ばせて下さる。
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自分の内には岩があり、すぐにいばらも生えて来る。御言葉を聞いて従って行こうとする時、主が心を良い地に耕して下さることを信じて、一つの御言葉を大切に受け取り、従って行きたい。