2013年02月18日(月)

「・・わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2

「神はアブラハムを試練に会わせられた」とあり、ひとり子イサクを、モリヤの山の上で全焼のいけにえとして献げるよう言われた。神からの「試練」であった。目に入れても痛くない最愛の我が子であり、イサクから子孫が増え広がるのであり、アブラハムには理解できなかったろう。しかし「翌朝早く」若い者たちを伴い3日かけてモリヤに出かけた。

彼は悶々と苦しみ、心に戦いがあったろう。本当に主が言われたのか。自分の聞き間違いではないか。しかし、今まで慣れ親しんで来た主のみ声に間違いはない。羊はその声を聞き分ける。彼は、神はイサクをよみがえらせる事ができると信じた。若い者たちに「ろばと一緒にここに残れ。私と子どもは礼拝して、あなたがたのところに戻って来る」と言った。イサクと共に「戻って来る」と堅く信じていた。アブラハムの信仰だ。

結果的に、手を下す瞬間に主が止められ、イサクの代わりの子羊が備えられていた。私たちも、時に一番大切なものを献げるよう、求められることがあるかも知れない。それは知らず知らず偶像になってしまっているものかも知れない。自分の生きがいとしているものであり、それは一見罪ではないので、気づかない。しかし、示された時に従うことにより、主との関係がより深められ、主が近くされる。
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優先順位の最初はまず神だと信じているが実は二番目のものが優位を占めていることはないだろうか。アブラハムのように私たちは二番目にと思っているものを神に献げることができるだろうか。