2013年05月21日(火)

「御霊で始まったあなたがたが、いま、肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3


アブラハムは、子どもを与えるとの約束を受けていた。しかし、時は過ぎるが、実現しない。それで、アブラハムとサラは、彼ら自身の思いと方法で、力で、主の約束を実現させようとした。サラは、奴隷ハガルによって、子どもを得る方法を提案した。自分たちで何とかしようと考えた。アブラハムはサラの考えを受け入れ、ハガルによってイシマエルを得た。つまり、イシマエルとは、人間の計画や力で、主の御心を実現させようとした時に、産み出されるものだ。

そこに神の関与はなく、すべて人間が自分の力で成し遂げたものだ。人間が、御座を支えようとする時、自分の努力で、神を助けようとする時、イシマエルを産み出してしまう。「神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません」。

私たちも約束の言葉を受けると、何とか自分の努力で、実現できないものかと思ってしまいがちだ。主は、何を求めておられるのだろう。「確信を投げ捨ててはならない。それは大きな報いをもたらすもの」「神の御心を行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」。「奇跡」は「不可能」という土壌でのみ現れる。

主は、肉が尽きるのを待たれ、そこでみわざをされる。神のみによって成された事が明らかにされるために。自分でどうこうせず、じっと信じて待ち望もう。その時、主の栄光のみが輝かされる。
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自分の内に何の手立てもなくても、長く待たされるとイシマエルを生み出してしまう肉が私達にもある。長く祈らされている祈りは、肉の尽きるのを待たされている時かもしれない。今一度、心のうちを探ってみたい。