2014年06月20日(金)

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます」詩篇10:17



謙遜とは、本当は自分には能力があるが、それを人に見せびらかさ
ない、という事ではない。そうではなく、本音で自分は無力だと認
めている事だ。取税人は真に自分の罪深さがわかり、認めていた。
それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばない。
人の事など目にも入らない。ただただ、自分と神との関係だけがす
べてであり、自分の罪だけが見えた。「こんな罪人の私をあわれん
でください」と、神に自らの赦しを求め、そして彼は赦され、義と
された。

モーセは40才の時に、自分の力で、同胞を救おうと立ち上がった。
しかし失敗し、荒野に逃亡。何も無い荒野で、羊飼いとして40年を
過ごした。そしてモーセが80才の時に、神により同胞を救うため召
し出された。以前と違い、かつての栄光も力も人脈も何も無く、真
に無力を知るモーセは「私はいったい何者」と尻込みした。
しかし神に説得され押し出された。

主の一番弟子であったペテロは、いつも前面に出る自信家であった。
しかし、「網を下ろせ」と言われ、こんな時間に魚がいるはずがな
いと思っていた、目の前で大漁の奇跡を見た時に、「わたしは罪深
い者」とへりくだった。そして、主を否んだ後、号泣して悔い改め、
自らの徹底無力を思い知った。自分の心底無力を知る人こそが、幸
いな者だ。自分を誇らず、自分に頼らず、主に拠りすがって行くか
らだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそ、実は最大の祝福だ。
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自分には出来ないと認めさせられる度に、自我に変わって主が心を
占めて下さる。無力を知る経験は祝福だ。自分から、主へ、御霊の
うながす方へと素直に従う者に変えられて行きたい。