2017年05月21日(日)

「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、 それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜が流れている」 民数記14:8



苦難のエジプトを出て、民は荒野に移された。その時に、主の示し
により、モーセは、カナンを偵察するため12人の斥候を遣わした。
戻って来た彼らの結果は二つに分かれた。10人は否定的だった。民
は強大で、自分達はいなごのようで、攻め上れないと恐れて怯えた。
しかし、ヨシュアとカレブは、上って行って占領しようと、信仰に
立った。

民は、紅海が分かれるという、神の奇跡を経験して来た。カナンへ
導き入れるとの約束も何度も聞いていた。だが、斥候の否定的言葉
を聞いた時、神を信じる事が出来なかった。斥候の12人は、全く同
じ状況を見た。しかし、信仰の目で見るのと、肉の目で見るのとで
は、こんなにも結論が異なった。

人間は、否定的見方が強く、放っておくと、否定的方向へ進んでし
まうと言われている。10人と民達は、神ではなく、目に見える状況
しか見なかった。しかし、ヨシュアとカレブは、神を見て、神の約
束を見た。神は必ず約束の地カナンを与えられると。そしてその結
果、彼らに導かれた人々は約束の地へ入って行くが、不信仰に陥っ
た民は皆、荒野で滅んでしまった。

神は、そんな事は不可能だと言う、信じない人々と一緒に働く事が
お出来にならない。私達の思考は否定的、悲観的に傾いてしまう。
神の言葉に立ち、御言葉を握り、御言葉で判断して行く訓練が大切
だ。今、見ているものは、御言葉だろうか、状況だろうか。

・・・・・・・・・・・
信仰生活は練習だ。御霊の気づきが与えられる事によって、状況を
見る目から、上を仰ぎ、御言葉へと目を移される。目に見えるとこ
ろの影響力は凄まじい。飲み込まれてしまう。しかし祈りつつ御言
葉にじっと目を向ける時、まず心が変えられて行く事を経験する。