2017年06月20日(火)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ルカ9:23



信仰者の生活は、信仰を持つ前と、どこが違うのだろう?何が変わ
ったのだろう。日曜日には教会へ行き、又、聖書を読んだり、祈っ
たりする事だろうか。それも変わったが、何かをする時に、その
「動機」が変化したはずだ。以前は自分中心に動いていた。動機は、
あくまでも自分の損得であった。

自分の利益になるか、損失になるかが判断基準であった。自分に得
にならない事などする理由がない。損失になる事など、とんでもな
い。そんな事のために、時間も、労力も、富も使いたいなどと思わ
ない。しかし、今、判断基準は自分の損得ではない。たとえ自分の
損失になっても、犠牲を払ってでも、主に従おうとしている。

軸が自分から主に変わり、主の御心かどうかが判断基準だ。そして、
自分の利益にならなくとも、主の御心を行なおうとしている。そし
て実際、行なう時、心に何にも代えられない平安と喜びを経験する。
以前は、自分の欲望を遂げる事が幸せであり、喜びであり満足だっ
た。そのために生きていた。しかし、その満足は束の間であり、又、
心は渇いた。

そのため、あれがあれば、これがあればと、満たされるのではと、
次々と目に見えるものを求めてさまよい歩く。しかし心の奥が満た
される事は決してない。真の喜びと心の平安は、自分を捨て、主の
御心を行なってゆくところにある。その時、この世には決して無い、
御霊の喜びがは与えられる。心底の喜びを味わえる。
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大きな十字架は負えなくても、今日、目の前にくる出来事の中で負
うべき十字架があれば黙って主に従いたい。人のためにと走り回っ
ていても、よくよく吟味すれば自分のためであったと思わされる。